昭和40年05月26日 朝の御理解



 私共は小学校の時分唱歌として習いました歌に「空も港もけん」という歌がございましたですね。空も港も夜は明けて、はやしなしたる帆柱にでしたかね。ちょっと文句を忘れましたけど、寄せ来る波も小金なり。と言ったような港の歌です。今朝だったかな私はあのうリズムですか、あの伴奏で目が覚めたんです。「空も港も夜は明けて、はやしなしたる帆柱に。」と言う、そしてから私あれからなんていうんですかねぇ。
 まぁ軽快なそのうあのうリズムの中に、目が覚めて頂くことが、「かみみなと、つりみなと」という事を頂きます。神港というところが確かにあるですねぇ。神港教会と言う教会があったこと、あのうお道の新聞か何かで見ました。それからつり港と言う所がやっぱりありますね。つり港教会と言う所があるんですよ。「かみみなと、つれみなと」ということを頂いたときに私は、ほんとにこの、おかげを頂かしてもらう。
 お道の信心によって、おかげを頂くというのは、私どもが、おかげを受けるということは、そのままが神様の助かりであり、私どもの助かりがそのまま神様の助かりであり、神様の助かりが、そのまま私どもの助かりと。いわゆるこのうじ、神も立ち行く氏子も、神も助かり氏子も立ち行くという助かり方。いわゆるあいよかけよでとこう仰る。そのあいよかけよで助かって行くと言う、助かり方。
 そういう助かり方をもって、あの御道の信心の助かると、まぁ言われているんですけれども。ね。それには、どうしてもです。やはり、神様の助かりの場というものがなかればいけん。もちろん、氏子の助かる場と言うものが、なからなきゃないけん。だから、私は色々と今朝の御祈念に感じさせて頂いたんですけども。今度の御造営の話しが始まりました時に、お土地のことが一番はじめに先行されました。
 そして、どうでも樺目が、おかげを頂くならば、善導寺と田主丸の中間である、合楽。あの付近でなかなければという限定されている。そこで、ちょうどあの辺をあちらこちら、皆さん、その、おかげを頂いたんですけれども。結局は、あのう合楽の石浦というところでした。これは、私があの話が、土地の話が、始まりました時に、神様にお願いさせて頂きましたら、石浦を探せと言うことを頂きました。
 石浦。やっぱりこのあそこは、さいでと言うますか、さいでのところばっかりに候補地があったんですけれども、結局はやはり石浦という所になったんですよ。ねぇ、あそこ石浦なんですよ。合楽の石浦と言う所なんですよ。その時に私が頂きましたのがやはり石浦でした。石浦は港のするというお知らせでした。石浦と言うのは普通はの泥とか、石とかという石が書いてありますけれども、御理解で頂きますと、いしとは自分の心のこと。心の港ということなんです。
 この心の港に開かれよっときにです。ここに神港としてのまたは鶴港。鶴は亀に対する鶴ですね。私のことを亀と仰るのですから。みなさんこうやって樺目、樺目と集うてくるのは、丁度、鶴が亀の元に通うてきておるようなもの。そこに鶴亀の舞い遊ぶような、めでたいおかげになると言うような御理解を頂いたことがございますでしょ。そういう意味だと思うんですよ。どうでも、ここに、神港が同時に鶴港がです、開港にならなければならないと言うことなんです。
 どうでしょうか?考えてみただけでも心が踊るような気がしますね。神様が、神様の船がですね。石浦に向かって、集まってくる。氏子が全部ここに集まる。難儀な氏子が例えば「そのう・・」石浦の港にっていうですかね、神港に集まる。神様もそこに集まられる。そこに、神様と氏子との出会いがある。交流の場が始まる。ここにです。ね。神も助かり、氏子も立ち行く場がでける。その準備が今なされておるとき。
 生み出されていく。そういうものが生み出されてくるためのいうならば、胎動がもう始まった、そんな感じが致しますです。ね。私も今朝から頂きました。港の歌です。「空も港も夜が明けて。」いわゆる樺目の曙というようなことを元日にでしたかねぇ、頂きました御理解に。そういうほのぼのとした希望を神様は私どもの心に与えてくださる。そこで、問題は私どもの石浦です。
 心の村が開かなければ駄目だということなんです。これが開かなければ、どういうふうに開いていくか。これが問題なんです。それが、ある方の場合は、何にも分かりませんから、一心にすがる。一心に拝む。そこから開ける方もございましょう。ね。もう拝んでるだけじゃいかん。ね拝まな通さんの時代から、ね。改まらなければ通さんぞ。改まる事によって、自分の心が開けると言う過程の方もございましょ。
 この際、この時、本気で改まらせて頂くぞと。ね。あらたまる事によって心が開けてまいります。だけでもない、いよいよその改まった心を磨き、ね。その改まった心をです。いよいよ清らかな美しいものにする。いわゆる、磨かなければ通さん、という最後的信心のです、段階の人もありましょう。信心の過程なのですから、一様と言うわけにはまいりません。
 いわゆる、樺目の合言葉でありますところの、限りなく美しゅうなりましょうやということ。限りなく美しゅうなろう、限りなく美しくなろう。というたり、思うたりし取っただけではできん。それには手立てがいる。その手立ての始まりが、まず拝むことしかなかった人が拝むことをし、神様を拝むと言うことはこんなにも有難いものであることが分かってくる。一心に思う、願うことが成就する。
 これも、この働きを神様の働きと言わずには居られんと言うようなおかげになってくるけれども、それをそのままではいけん。育てなければいけない。ね、そこで、本気で踏ん切りをつけて改まらせて頂く、改まらせて頂く。まぁ本当に自分の心の中からこういうものを改まりと任せて頂くことがです。まぁ確かに至難は至難、難しいことは難しい。けれども、ね。改まった後の有難さ。ね。
 改まらせて頂いた後の喜びというのは、信心に改まり、改まりの踏ん切りをつけて信心を進めて行くものでなければ分からない。私は、おかげだとこう思う。それがいよいよ、限りなく清らかに、限りなく美しゅうならせて頂くというところに心を開かせてもらう。ね。いわゆる心の浦が開けてくる。そこに神港としての、ね。鶴港としての、働きがその場に始まってくるようになる。
 亀、神港。あれは、どこでしたかね。あの、11月の月を神無月ともうしますね。「かみなしづき。」それはあのう、大国主命とが御祭りしてあった所ですね。大黒様が祭してある所。あのう、あそこはなんて言う所でしたかね。出雲でした。出雲の出雲大社にですね、出雲大社に毎月その11月になると、全国の神様方がみんな集まられてくるということです。それやら、これやら、今朝から頂いてからですね。
 ほほう、大黒様、私のことは大黒様と仰るんですね、神様は。ある意味で。大黒様のとこに神港、神様の船がだぁっと集まってくる。ね。いわゆる、どうも近い将来神無月が始まり、あるそうな感じがするんです。それをだから、んならその神様のですね、お集まりを受けてただせていただくのは、皆さんなんです。その準備は出来て居るかということ。神様がお集まりになる、その神様がお集まりになる、その受けてたださせていただく所の、準備が整って居るか。
 心の上に。形の上に。一刻も猶予することも出来ない。本気で自分の心の港を開かせていただいて、「ね。」本気で一心におすがりすることに、または改まらせて頂くことに、本気で磨かせて頂くことにです。おかげを蒙らせて頂かなければならない。次に、今日は私最後の、御祈念の最後の時に頂きますことはですね、「場所が決まらな水道も取り付けられん。」と頂きました。
 「場所が決まらな電気もつけられん。」と頂きました。どう言う意味やと思うんですか、水道屋さんも、ちゃんともう準備しておられる。いつでもどうぞ、その用意がもうそろそろ答えまで出来ておられる。電気工事をする人も同じ事。水といやお恵みと仰るですねここでは。電気といや光のことでしょ。皆さんの心の上に、皆さんの家庭の上に、思い思いに神様は下さろうとしておるということなんです。
 心の中に光を与えようという、電気設備が出来るばっかりになっておるということなんです。けれども、ひのもちばらが、どこをつけておればわからんじゃないかと言うことなんです。部屋が決まらなということは、心も定まらんということだと私は思うんです。心が決まらな、あぁでもなからうか、こうではなかろうか、と迷うようではつまらんということ。まだ、部屋は決まっちょらんのだ、まず、心を決めなきゃなりませんということ。とにかく、心は決まった。
 そこに電気屋さんが入るでしょう。水道屋さんが入るでしょう。お恵みの水が、何ぼでも必要に応じて、頂けれるように。暗かった部屋が、いわば明くるく電気の施設が出来るように。おかげを頂かなければなりません。腹、決めなきゃいけません。ねぇ、もう腹も決まっております。それは、今のままじゃ駄目なんです。それは、鉄の腹じゃつまらんということ。本当に神様に通うような。
 いや、本当に一生懸命っていう腹そんなもんじゃないということ。ね。一生懸命の腹を決めなきゃ駄目だということ。神港が開港される。その港が開港される。心の村が開かれると。ね、そういう大変な港が今日開かれるのであるから、いわばここに開港秘話と言ったようなものが、目の前にあっても私は良いと思う。開港秘話と言うのは、港を開く。そのための裏話というか。
 陰話しというか秘密の秘ですね、秘。話し秘話。ね。あたし達の父の時代または自由の時代どう言う時代に、樺目のお広前が合楽に移転する時、あの港が開かれる時に私のじい達やばば達がこう言う様な修行をさせてもろうて、こう言う様な腹を決めてこう言う様な勢いと一心をもって、あのお広前が建立されたんだと言った様なです。いうならば話しが子供に孫に伝えて行けれる様な、しかも可笑しくない様な。
 いや、後のものの手本になるような、私はお話がみんなの家庭にあっても良い時ではなかろうかと私は思う。どうですか?丁度、家のじいたちが時代に樺目のお広前をあちらに建立された。移転された。そうなるほど、諸寺仏閣のようにね、そこに建立なされるときに、どこの誰それが何万円、どこの何とかが何十万円積みましたと言ったような石の札も立たなければ、木の札も立ちません。
 もちろん、寄進勧化をしては、神は喜ばんとおっしゃるから、寄進勧化はいたしません。ね。寄進勧化というようなものではない。私の事として頼むのだから。そういう私は踏ん切りがです、でけなければならない時ではなかろうかと。先日から、企画部の方たちが、まるで、あぁそこで。夕べ張り出されました。夕べ全部印刷するようなもんができてきた。皆さんの手元にそれが配られるだろう。
 今のままでは詰らんですばい。あたしはここに描いているだけではつまらんです。本気でね本気で本気でおかげを頂くと言うそれにふさわしい、恥ずかしくないものが私はあの箱の中に投函させなければだめだと思う。一生懸命なる様なものがそれが私は書いとかなければ駄目だと思う。昨日ある方が時々参って来る。その話しを彼の御造営のことで聞かせてもろうてから、先週の私共はまぁ普通はギリギリの生活をしておりますから、どうにも出来ませんけれども、そして今度の賞与の月までお待ちください。
 賞与の月は賞与袋そのまま、御供えさせて頂きたいと思うからというて。そんな事でどげん家が建つかとそれはです。勿論信心にお出でで御座いましょう。ね、それはもうそれこそ、あのほんとにお印ばかりでと、いう気持ちを一生懸命に百円なら百円の御初穂に込めておられる方も居られるでしょう。けれどもですね、樺目で私はいつも言うておるです。樺目の中で50名の中の一人にはいらさせて頂こうと言うのならばです。そんなけちな考えでは駄目ですよ。皆さんがどうこう心の賞を幾ら頂くか。
 例えて言うならば、ね。儲け出したならばおかげを頂いたならば、おかげを頂きましょうと言ったような腰の弱いことじゃ駄目なんです。あろうがあるまいがなかろうがあろうが、ね。これだけのことは腹が決まったとその腹の底にです。神様の栄光を受けることが出来る。腹が決まれば電気施設。決まらなければです部屋が決まらなければ、電気もつけられん。腹が決まらなければ、水道施設もできんじゃないかと。
 私は言うならば皆さんに求める腹はそういう意味合いにおいての腹が決まらなければいけないということなんです。昨夜の御理解の中で私が申しました、昨日の朝私が頂いたお夢の中から、樺目の信心とは。もし、人が問われたならです。成り行きを大事にする。成り行きを尊ぶと。ね。人間の考えでは、現在の椛目においてです。まだ、御造営と言ったようなものは、大体言うたら、ね。
 椛目の上には、まだまだ3年も5年もいうならば10年も先でも良いような感じがする。こういう人間の考えは。けれども成り行きはです。自然はですもうそう言う事はないと言うことです。成り行きと言うことは、そのまま神様はです。もう先頭に立ってそういう働きをはじめておられると言うこと。そういう成り行きになってきた。是が非でもあそこへ樺目から移転しなければならないと言う様な状態に神はあるということ。
 そういう成り行きになってきたっでしょうか。一度もおかずを埋め立てている場合ではないでしょうが。ね。そして私は次に頂いた。ちょうどここで、お醤油屋さんがそのそのお醤油がね、キッコーマンと言うお醤油と、あのヤマサと言うお醤油のいわば、大売り出しがあっておる。と言うような感じです。もちろんキッコーマンと言うのは、先ほどから申しますように、亀に対する鶴でありますように、鶴に対するところの亀の運じゃろうと思うんですよね。キッコーマンですから。
 ヤマサと言うのは、ここは御結界が左ですから、さですね。にんべんに左という字を書いてある。ヤマサと言うのは、ヤマサって言うのヤマサという醤油がありますね。山にさと言う字が書いてある。これを同じ醤油でもですね、有名醤油です。両方とも。んなら、両方とも、その質が違うんですね。片一方は甘口、片一方は辛口というのですね。ですからそれは、信心の度合い程度と言うですか、個性というか。ヤマサ的な人も居れば、キッコーマン的な人もあるでしょう。
 もちろんそれはそれで、修行は修行なんです。だけれども、紫なんです。それは皆さん聞かんでも分かっておるでしょう。ところが、その醤油にね、一本一本に札が付いとるとじゃん。それがね9月の27日までにお買い上げの方にはと書いてある。9月27日までにお買い上げの方にはです。ね。こう言う商品に差し上げるようにしてありますと書いてあるんです。そのかわり皆さんひとつよく心を練らせて頂いてから、ね。せっかく同じ品物を買わせて頂くのならです、ね。
 お店のほうがそういうサービス精神を持っておるとき、買った方が便利じゃない。いうならば、ここに一度頂きましたです、ね。6日の菖蒲にならんように、10日の菊のおかげが頂けるような、おかげになってこなければならないということです。そういう細々な事から、ね、そのことだけじゃありませんけれどもです。ここに、鶴港が神港が開港される。その前夜にもといったような雰囲気、そういう感じ、そこに石浦に、石浦と言う心の浦に、一心にすがるということ、あらたまるということ。
 または、本気で限りなく美しゅうならさせて頂こうという心の港が開かれる時。そこに、腹が定まった時、そこに心が決まったとき、早速神様の働きがです。水道、電気、お恵みの水が限りなく、頂ける設備ができるだろう。暗かってはなからならぬところのおかげの設備が出来るだろう。そこからです、ね。信心、共励、いわゆる合楽なのである。実に神ながらでしょう。神様と氏子とが本当の極楽に成らせて頂けれる所の番、が合楽に定められるのである。神も助かり、氏子も立ち行くと。
 もうそれこそ、御道の信心させて頂いておれば、ね、これはいつも言う言葉なんです。そういう助かり方をもってお道の助かりなのだと。神様だけが助かるんじゃない、氏子だけが助かった、おかげを頂いたと言うのではない。神の助かりは、そのまま氏子の助かりにつながっておらなければならない。氏子は共々、助かりはそのまま、神様の喜びにつながっておらなければならない。
 そこに、私はあいよかけよの働きがいよいよ密になってくる。ね。そういう、神無月にして、樺目の御広前に、合楽の御広前に、信心共励の場が生まれる。神と人とが共に栄えて行く所の、道が開かれる。それを、思うただけでも、なんと素晴らしい時期に、ね。なんという素晴らしいチャンスに恵まれておるかということにです。お互い、思いをしてから、本気での信心の御造営がなされなければならないと、思うのでございます。
   おかげ頂きました。